政治と芸術について

2004年2月25日
「SOUL for SALE」のロックンロール⊇政治を読んで、久しぶりに政治と芸術について考えさせられた。

http://www.socion.net/soul/index.php?itemid=275

この前六本木ヒルズの森美術館に行ったとき、そこに在ったのは現在世間で芸術ともてはやされているものの「最大公約数」的なものだった。奈良美智や村上隆などだ。こいつらは何らかの形で政治に言及している。

以前、東京近代美術館に行ったとき、世界大戦以降の作品はアウシュビッツの陰を落とし、その後ベトナム戦争などが、そして、今は9・11が作品の中に大きな影響を与えていると書いた。

しかし、「SOUL for SALE」のロックンロール⊇政治を読んで、その認識は間違いだったのでではないかと考えた。

「政治に言及する芸術」という形式を我々が望んでいるのではないだろうか?

芸術が政治に言及するということは大きな危険性を持っている。安心して鑑賞できるものを作ってないと逆に見る者を白けさせるおそれがあるからだ。
この「安心して鑑賞」というのは、反でも肯定でもどっちでもいいのだが、言及された時それが反論でも肯定でもどたらでも結局制作者のプラスにしか意味をなさないという安心感を作品が持つことを意味する。
これがきちんと出来ていないと、その作品は政治をネタにしただけ芸術であり、政治がもつ「だったらどうしたらいいんだよ」という本質的に代替案を求める姿勢を崩すことができない。

政治は簡単に行ってしまえば、お祭り的なものである。それに参加しているものにとってはこれほどおもしろいものはないが、参加できないものにとってはこれほどつまらないものはない。政治に言及した芸術の多くは、政治に参加できないものによって鑑賞される。この時に、上述の政治に対する言及の仕方が重要になってくる。それは反、肯定という姿勢ではなく言及の仕方、代替案など意味をなさない言及の仕方である。

で、やっと冒頭にもどるのだが、森美術館にいったときこの政治をネタにした芸術を展開していたのが、奈良美智とオノ・ヨーコである。

「SOUL for SALE」のロックンロール⊇政治に、

つまり、ジョンは「政治をネタにするアーティスト」だったけど、ヨーコは「アートを資源にする政治家」だったんじゃないか。


ということが書かれてあった。俺の感覚では、オノ・ヨーコは芸術家を名乗っていい姿勢を保持していない。森美術館でもオノ・ヨーコが愛だの平和だののメッセージを送っていることに対して共通の違和感、それ以上の忌避感を感じた。しかし、それが実際は平気でまかり通っている。

もし、俺の感性が正常だとしたら、一つの可能性として、「政治に言及する芸術」というものに対する需要がじつはかなりの量で存在しているということが考えられる。その潜在的な需要に芸術家が応えているのではないかということをふと思った。

PS

その後、考えた結果、「芸術的な政治」というものを望んでいる気もしたが、それはまた今度。

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